インタビュー

インタビュー2021.04.06

【第6回】浜田 寿美男 氏(立命館大学上席研究員 / 奈良女子大学名誉教授)

 浜田 寿美男(立命館大学上席研究員 / 奈良女子大学名誉教授)(写真中央)
 1976年京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得後退学。花園大学助教授、同教授、奈良女子大学教授を歴任した。専門は発達心理学、法心理学。後者では、被疑者や目撃者の供述分析を行っている。法と心理学会の初代理事長。  
 佐藤 伸彦(立命館大学大学院先端総合学術研究科研究生)(写真右)
 2019年立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。博士(学術)。専門は法社会学、法と教育。   
 相澤 育郎(立正大学法学部助教)(写真左)
 2013年九州大学大学院法学府民刑事法学専攻博士課程単位取得満期退学。博士(法学)。専門領域は刑事法学、刑事政策学。主な研究テーマは受刑者の法的地位、犯罪者処遇モデル、刑事施設医療など。



※ 当日のインタビューはZoomを使って行われました。



―― 本日は、よろしくお願いいたします。


浜田 よろしくお願いします。


―― 浜田先生は、これまで取調べや自白などに関する多くのご著書を出されていますが、法と心理学に関わる領域で研究されるようになったきっかけがあればお教えいただけますでしょうか。


浜田 私は大学に入ったのが1965年で、卒業が69年です。69年というと私たちの世代にとっては象徴的な年で、大学が大混乱の時代でした。もともと大学院へ行くつもりでしたが、ちょうど東大の入試がなくなった年で、そのまま大学院に進んでいくというのは気持ちの上でも、学校全体の雰囲気の上でもなかなか難しいという状況で、結果的には2年後に大学院に入り直すという形になりました。

 私のもともとの専門は発達心理学です。当初、いわゆる実験研究が中心だったのですが、どうもなじめないところがあって、スタートラインとしては翻訳からはじめました。当時、仲間たちと少し古典を勉強しようかということになり、ハインツ・ウェルナーらの『シンボルの形成』という本を、のちに京大に勤められることになる鯨岡さんと一緒に訳して、翻訳書を出版してもらいました。そのほかにも翻訳書を数冊出して、それが一種の業績となって、結果的に大学に残ることになりました。当時は学会闘争の時代で、「学会とは何ぞや」、「専門とは何ぞや」ということを議論していた時代でしたので、学会に入って職業の基盤をつくり上げるという発想はありませんでした。

 1974年に、甲山事件が起きました。兵庫県の西宮で起こった知的障がい児の入所施設で2人の児童が連続して行方不明になって、その後、学園内の浄化槽から溺死体で見つかったという事件です。この事件は、事故の可能性が実は高かったんですけども、浄化槽のマンホールの蓋が閉まった中で溺死していたので、警察は殺人事件と断定して捜査をスタートして、新聞、テレビなどでも大きく取り上げられることになりました。

 最初は1人の女の子ですけれども、先生が連れて行くのを見たという目撃供述が出たということで、22歳の保母さんが、事件から3週間ほど経ってから逮捕されました。その保母さんは逮捕から10日目に自白してしまうのですが、自白した上で、具体的な犯行のストーリーが語れない中で、やったと言ったりやっぱりやってませんと言ったり、行きつ戻りつが続いて、5日目にほんとはやってませんと言い直すことになる。証拠らしい証拠が全くなかったものですから、当時の検察は起訴できないということで不起訴になるんです。しかし大々的に取り上げられた事件ですし、亡くなった親御さんが許せないということで検察審査会に申し立てる。審査はマスコミの情報に相当汚染されてる状態で行われて、結果的に不起訴はおかしいという決定が出ます。それに乗るかたちで検察側が主導で再捜査に乗り出すということになりました。

 事件直後に話を聞いていた子どもたちを中心に、当時見たと言っていなかった子どもたちを含めて、事件から3年後にあらためて事情聴取したところ、「僕も見た」、「私も見た」といった話が出てくることになったんです。合わせて4人の目撃者が登場する。事件直後の女の子の場合は、「先生が連れていく後ろ姿を見た」というだけだったんですが、事件から3年後の事情聴取では、「先生が非常口から引きずり出すところを見た」という目撃供述になっていたんです。その目撃情報が出たということで、検察は再逮捕に乗り出し、今度は起訴することになりました。

 この段階で、冤罪の可能性が非常に高いということで、大阪・神戸の弁護士さんが中心に大きな弁護団が組まれましたが、ただ弁護士は法律の専門家ではあるが、子どものことは必ずしもよく分からない。ましてや知的障がい者の子どもの話になるとさらに分からないということで、弁護士だけでは対応するのは難しいという話になって、子どもの問題あるいは障がいのある子どもの問題を一緒に考えてくれる心理学者がいないかということになったんです。この事件に関与する前に、私は狭山事件に少し関与してまして、そこで自白が最大の争点になってたんですね。それでその自白問題をどうするかということを、弁護士だけでなく、精神科医とか心理学者を含めて議論する研究会を、上告審の段階で立ち上げていました。その中の弁護士さんの1人が甲山事件の弁護人になられて、その人を介してこちらにも関与してもらえないかということになったのが、最初の出発なんです。

 この裁判では、検察側から、子どもたちの証言を非公開にしてほしいという要求がありました。公開裁判でやると、傍聴人、新聞記者たちもたくさんきて、子どもたちが本当のことを言わなくなるというわけです。証人が知的障がいがあるから非公開というのはおかしいんじゃないかと思いましたが、結局、裁判所が認めて非公開で行われたんです。非公開になると弁護士と検察官と裁判官だけになってしまうので、特別弁護人という形で専門家を入れていいということになりました。私はこの裁判にずっとお付き合いして、一審は特別弁護人として弁論をしました。それがのちに『証言台の子どもたち』という形で私の最初の単著になりました。私にとっては、ある意味で運命的な出会いでもありました。

 この事件、74年の事件で、78年に再逮捕・起訴ということで裁判が始まるんですが、1985年に一審無罪ということで全面的な勝訴でした。推定無罪という原則ですから、証拠がなければ無罪ということでいいんですけど、裁判所は徹底して無実の可能性が高いという判断で、子どもたちの証言が誘導して出てきたものだという、かなり踏み込んだ判決を下しました。救援会の人たちは「真っ白無罪」とか言ってまして、そう言いたくなるような判決が出たんですけど、検察側はそれに対してあらかじめ対策を立てていたように見えます。

 事件のあった74年当時は、組合活動がかなり盛んだった時代なんです。学園は組合が2つあって対立していたわけなんですが、そういうことが事件の背後にあるんじゃないかと捜査側はにらんでいたんですね。子どもたちが3年間言わなかったのは口止めがあったからだという論法をたてて、その立証のために相当数の証人をたてなければならないと主張したのです。弁護側は口止め工作などありえないし、その工作を証明するためにさらにたくさんの証人を立てれば、裁判がさらに長期におよぶ。78年に裁判になって85年に一審判決ですから、それだけで7年かかっているわけですね。口止めの証人やアリバイの問題でも証人をたてれば、さらに数年、裁判が延びてしまう。そこで第一審の裁判所は、検察側の証人申請を切ったんですが、それに対して、検察側は、審理は尽くされていない、審理不尽だということで控訴審を争ってきました。その控訴審で裁判所は検察側の主張を受け入れてしまって、結局弁護側は負ける。審理不尽である、したがって一審に差し戻すという判決が出てしまうんです。それが1990年になってましたかね。一審判決からさらに5年以上経っていました。弁護側は、この検察側の主張が通るはずがないと考えていたんですが、それは確かに甘かった。残念ながら、日本の裁判はそう簡単に安心できない世界で、裁判官は検察側の主張を簡単に受け入れてしまう。控訴審では知的障がいの子どもたちの特性を一般論で判断して、知的障がいがあれば供述に多少の変遷があってもやむ得ないというかたちで、その障がい特性を誇大に取り上げてしまって、差し戻しという判決になってしまったんです。弁護側はこの判決にずいぶんショックを受けて、上告するんですが、最高裁も三下り半で棄却。結局、もう一度、腹を決めて時間がかかってもやるべきことをやるしかないということで、5、6年くらいかかりましたかね。差し戻しとなって2回目の一審で徹底して争い、結果としてふたたび無罪の判決を得ました。しかし、これに対しても検察側がふたたび控訴するんですね。それで、再度の控訴審になる。その時点で、裁判がはじまってすでに20年近くかかっていました。これでいいのかという批判が盛り上がる中、大阪高裁はものすごいスピードで審理をやりまして、無罪判決が出る。検察側は、今度はこれだけ長期の裁判で無罪になって、上告すべきでないとマスコミでも騒がれて、上告しなかった。ただし、当時のことを考えると、こちらの憶測ですけど、1977年段階で事件を再捜査し、78年に起訴に持ち込んだ検察官が、1999年に2回目の控訴審判決が出たときは、定年で辞めてたんですよ。傷つく人はいなくなったわけです。上告しないかもしれないと思ってたら、本当に上告しなかった。

 長々としゃべってしまいましたが、こういう事件に巻き込まれたことがきっかけでした。


―― 大学教員になられたタイミングくらいから、早い段階で狭山事件、その後、甲山事件に関わられて来られたというとですね。


浜田 そうです。大学教員になったのが、76年ぐらいでしたかね。その2年後の時点で、事件から25年、裁判だけで21年かかるというとんでもない事件に引っかかって、おかげさまで弁護士さんと知り合いが出来てしまって、そこから色んな事件が舞い込むようになったという経緯です。


―― この法と心理学会のインタビュー企画でも、色々な方のところで浜田先生のお名前が登場してくるのですが、甲山事件に関わる中で、他の心理の先生方とか、法律の先生方とかと関われれるようになったのでしょうか。


浜田 結局、いろんな事件の相談が舞い込むようになったんだけど、一人ではやれないわけですよ。頼まれて、誰かやれそうな人を、知り合いをたどって探すわけです。最初、私は甲山事件で、子どもの目撃供述、しかも知的障がいの目撃供述という特殊な問題から入ったことで、そこまで意識はなかったですけども、法と心理学の境目にはいろんな問題がある。それで相談がたくさん来るようになったけれども、やる人がいない。それで近くにいた誰かに頼んでやってもらってきたということです。


―― そこから以後の法と心理学の礎を築かれるような人たちが、次々と出てこられたということですね。


浜田 結果的にはそうですね。


―― 少し話題は変わりますが、先生は学生時代をどのように過ごされましたか。当時の大学の雰囲気とかはどうだったのでしょうか。


浜田 先ほどちょっと言いましたけど、大学で何をするかということはずいぶん悩みました。もともと心理学をやろうとは思ってましたけど、実験系は面白くなかったんですね。実験的なコントロールをすると、人為的なものが出来上がってしまうというところがあって。その点、発達心理学は、子どもの現象を記述するというのが中心でしたので、私にはわりあい肌に合いました。卒論は実験的なことをやってましたけど、それ以降は、翻訳作業を通しで勉強しましたし、現象学が好きで、当時翻訳され始めたメルロ・ポンティとかにはまって、今でもその影響が自分の中では強いと思っています。翻訳がいわば修業時代で、大きな仕事をしてきた研究者の思考の跡をなぞるという修業をしてきたのかなと今では思います。


―― 研究者を目指されたのは、かなり早い段階だったのでしょうか。


浜田 目指すというつもりはなかったですけど、たまたま他に就職する気持ちはなかったですから。ただややこしい時代でしたので、狭山事件に関わるようにとなったのも、そういう縁ですよね。裁判の問題を色んな人を巻き込んでやらなきゃいけないんじゃないかという中の一人として、私も甲山事件でやるようになったということだと思います。


―― 心理学以外の他分野の人たちとの交流で、苦労されたことはありますか。


浜田 法の人たちとは発想が違いますからね。だけど、甲山事件の場合は、弁護活動の中心を担ったのが若手の弁護士たちでした。弁護士の世界にせよ、検察官、裁判官の世界にせよ、何かヒエラルキーが強いということがあって、弁護団会議でも期ごとに席順が決まるというような妙な権威主義がありました。その点で甲山事件は全然違っていたんですよね。74年に弁護士になった人たちが中心で動いて弁護団が組まれ、先輩はたくさんいるんですけど、弁護団会議が実に活発で、年齢や期に関係なく相当やりあってました。代表は年配の人で、大変に苦労したと思いますけど、そういう議論の場にいたのはすごく面白かった。逆に狭山弁護団は格式張っている感じがあって、弁護団でもさまざまだなと思いました。ともあれ法の世界の人たちとの出会いは新鮮でした。弁護士の中には元検察官の人もいますし、元裁判官の人もいらっしゃいますし、色んな人がいて、その点では面白いと思いました。

 甲山事件の第一審判決が85年に出て、特別弁護人としての私の仕事が終わった後、子どもたちの目撃供述がどうやって形成されてきたのかを、裁判所に提出した意見書をもとに本にして、翌年出版しました。その後、狭山事件の自白の分析を鑑定書にして、それも1年後くらいに本にまとめています。それから野田事件という、知的障がいの男性の事件で、これも大変に苦しい事件だったんですが、鑑定書を書いて本にすることができました。そういう中で、袴田事件の自白の問題を考えてほしいという依頼があった時期に、ちょうど自白の問題をまとめておかないとあかんということで、過去の冤罪事件、無罪事件で虚偽自白ということがほぼ確定している事件について、「なぜ虚偽自白が起こるのか」を『自白の研究』という本にまとめました。これが1992年でした。

 一応、私は発達心理学者ですので、大学では発達の授業をしてるんですけど、片方で裁判の仕事が面白くもあり、自分にとっても大事な仕事だと思っていました。外からは二足のわらじを履いているように見えたかもしれないですが、自分では一つのことをやってきた感じですね。


―― 今年、新型コロナウィルス感染症の蔓延により、世界の様相は大きく変わったようにも思いますが、先生ご自身は今の状況をどのようにお考えになっていますか。


浜田 難しいですね。昔は会議があると外に行って、話が終わった後は飲んで、ざっくばらんな話をして帰って来るという、いわば生身で会うということが普通でした。しかし最近はZoomなんかが多くなってしまって、便利ではありますけど、人間同士の付き合いにはなりにくいところがありますよね。人との付き合いが、どうしても平面的な感じがするんですね。例えば、地域の中で子どもの問題を考えようかという時に、Zoomでやるとなんか地面に根をおろしていない感じがして、便利だけどこれだけではやっていけないという感じを私自身は持っています。研究の側面でも、一応、客観的に外から距離を置いた形で見て、一般論として成立しなきゃいけないという見解が一般的ですけれども、片方で、生活の基盤に根差したところで議論しなきゃいけないこともたくさんあるわけですね。コロナに引きずられて情報の交換で終わってしまう状況は、研究者としてまずいかもしれんと。研究者としてはむしろそういう思考を持った人も多いかもしれないですけど、やっぱり地面から離れてしまった議論になりかねないような気がして、まずいところも多いなぁと思ってますね。議論する場面の背後にあるものというのは見えないですよね。生身で出会ってないと。


―― 確かに、ミーティングの用件だけを果たすのであればZoomはとても便利ですけど、その周囲にある人間同士の関わりだとか、色んなものを捨象してしまう面はありますね。


浜田 そうですね。


―― 先生はこれまでに膨大な数のご著書を出されているわけですが、研究にあたって心がけておられることとか、研究のスタイルの特徴といったものはあるのでしょうか。


浜田 結果的にいうと、学会活動に熱心でないということでしょうね。もともと翻訳から出発しましたから、いわゆる学会活動は、ほとんどしてこなかったんですよね。大学院時代、学会闘争が盛んな時期で、学会とは何ぞやという議論が盛んに行われていました。いわゆる「学会つぶし」というのがあって、私の先輩方が乗り込んで学会とは何かということを吹っ掛けていた時代だったんですよ。

 そういう時代でしたから、私自身、学会に入るわけにはいかんという気分だったわけです。私が最初に学会に入ったのは、児童青年精神医学会ですが、これは雑誌がほしくて入っただけでした。後はずっと入らずじまいなんです。日本心理学会も入ってないし、教育心理学会も入ってない。発達心理学会ができたときも、知り合いがたくさんいたのでお誘いを受けたんですけど、入らなかった。法と心理学会を作らざるをえなくなったのは、若い人たちが、法心理学に関心を持って、仕事としてそれを続けていけるためには、業績をつくる場所を作らなきゃいけないんじゃないかという話が出てきたからです。90年代後半から色んな人が関与し始めて、学会として立ち上げなきゃいかんじゃないかということで、私は初めて本格的に学会活動をすることになりました。学会活動には熱心じゃなかったですけど、やむなく法と心理学会を立ち上げないといけないということで、2000年から始まったと思います。


―― そこで先生は理事長をされることになったわけですね。


浜田 そうです。だから、2期やったんです。非学会派が理事長を突然するっておかしな話ですけど。やむなく6年間やったということです。

 私は学会誌に論文を投稿するというのを1度もやったことないんですね。本しか出してないんですよ。出してくれるところがあるのでありがたいんですけどね。


―― 先生は、今後どのような研究をされたいとお考えなのでしょうか。


浜田 いろんなことは考えているんですが、法との絡みでいえば、今までの心理学の実験的な方法とかをうまく法の世界に用いるという発想も当然あると思います。目撃研究なんかは、いわゆる王道の実験心理学と絡み合うところも多いと思うんですが、自白の問題とかは違ってくるんですよ。自分の体験したことを語ったものが、どこまで正確に自分の体験をうまく描き出せているのか、あるいはそこに虚偽がいかに入り込んでしまうということとなると、なかなか実験的にはできないものですよね。虚偽自白に関する実験なんかは、公表されているものもありますけど、現実に食い込む範囲に限りがあると私は思っている。その意味で、人間が自分の体験した出来事をいかに語るかという、「語りの心理学」を考えなければならない。心理学の世界では、いわゆる「ナラティブ」の研究です。ところが、ナラティブの研究というのは、「語り」が真実かどうかがなかなか問題とならない、真実かどうかを見抜くようなことはできるようなもんじゃないという発想が強いんです。ナラティブ論の中で社会構築主義というものがありますけれども、相対的なものとして捉えられやすい。だけど、裁判で問題となる「語り」というのは、本当か嘘かなんです。端的に言うとね。相対主義的な形で理解、解釈するナラティブ論に対して、真偽の判断を目標にするナラティブ論ってあっていいと思うんですよね。真偽が問題となるナラティブ論というのをいかに立ち上げるかが大事になる。もちろん実験心理学的な研究も使いますけれど、それだけじゃなくて、私たちの日常の語りの中で、人々は自分の出来事も語って生きてます。もちろん架空の話も語りますし、真偽が語れないような自分の思いとか思想とか語るということもあります。けれど、本当か嘘かということが問題となるケースもたくさんあるはずなんですね。そういう意味で、真偽が問題となるようなナラティブにおいて、その真偽を判別するための心理学的な知見をどう立ち上げたらいいのか、というのが今のところの問題意識なんです。

 私たちの日常生活が協同的になされていくときに、お互いが前提にしている「私たちの心理学」があるだろうと思っているんです。客観的に上から神様のように眺めをおろしているという心理学じゃなく。実験心理学っていうのは、神様の視点にたっているんじゃないかと私は思っているんです。行動法則を導き出すことが心理学であるという、実験心理学的な方法で見いだすことが必要な場面はありますが、そうじゃなくて、日常の中でお互いに言葉を使って語ってる中で真偽が問題となり、かつ単に相対的だからどっちか分かりませんよという話でなくって、非常に素朴に真実は一つという側面を、どっかで私たちは前提にして生きている。その領域で、神様の心理学じゃなくて「私たちの心理学」を、どうやって一般論として立ち上げることができるのか、というようなことが問題意識としてあるんです。「私たちの心理学」っていうと、素朴に人間の心理がどう動くかという形で考えやすいんですが、私たちがこの世の中を理解する中にはいろんな歪みというか、その前提としているところにいろいろな誤解があるっていうように思っていて、「私たちの心理学」というのは素朴な心理学ではないんですね。

 法の人たちが、心理学の観点からはおよそ常識とは言えないことを、まるで常識であるかのように思い込んで信じていると気づかされることがあるんですよ。痴漢事件の鑑定を何回かしましたけど、被害者の供述を捜査官が引き出してくるときに、まるでテレビの実況中継みたいな供述調書が出来上がる。当事者がその場をどう体験しているかではなくて、その場にいれば体験したはずだと第三者が思い込んでしまうようなことを盛り込んで調書を作り上げている。しかし、これをたとえば「図と地」の観点から見れば、明らかにおかしい。満員電車の中にいて、人は何を体験し、そこで何を図にしているのか。体が周囲の人と密着している感覚を図にしてしまったんじゃ、たまったもんじゃないですよね。痴漢は別ですが、普通の人は身体が接触しているということを背景(「地」)に沈めようするんですよね。外の風景を眺めようとしたり、吊広告を見ようとしたり、無理して新聞を読もうとしたりして、図を別のところに持とうとする。そういうごく当たり前のことが、裁判の中で理解されていない。そこにいたんだから気付いたはずじゃないか、という感じでいわれてしまうことがあって。それはそうじゃないということは、日常的な私たちの体験に照らし合わせればすぐに分かるはずなんです。けれど法の人たちの事実認定というのは、詳しければ詳しいほど信用性が高い、臨場感があって迫真性があればあるほど信用性が高いと思ってしまっているところがある。人間の現実はそんなもんじゃなくて、自分の意識が向いているところが図になって、それ以外は背景に、つまり地に沈むんですよね。そんな当たり前のところが見逃されてしまっているがゆえに、誤判がけっこう起こっている。その意味で、素朴心理学を越え、その素朴心理学のありようをも対象とする「私たちの心理学」が必要だろうと思うのです。学生時代に私が好きだった現象学の世界と、それがある意味ではぴったりと重なってくるようにも思います。


―― 完全な神の視点でもなく、完全な相対主義でもなく、ナラティブの中にも真実があって、その法則を見つける、そういうような心理学のイメージでしょうか。


浜田 そういうことを鑑定書には書いているつもりですけど、裁判官は簡単には説得されてくれません。困ったなぁと思ってるんですけど。


―― どちらかで考えてしまいがちですよね。客観的な分析か個人の主観かで見てしまいがちです。


浜田 主観は人間の現象ですから、主観の科学、っていうのがあっていいと思っています。例えば、捕まって私がやりましたってしゃべった人がいた場合、その語りは実際の自分の体験を語ったことなのか、自分の体験ではなくて周りの取調べの状況の中でやむなく言わざるを得ない気持ちになって語ったのか、どちらかであるはずですよね。だから、真偽のあるナラティブっていうのは当然あるわけで、その世界をどう見るのかということを、もうちょっと心理学者はやっていただいてもいいんじゃないかと思うんですけどね。


―― きっとこれを読んだ人、若手の研究者などにも興味を持つ人がいると思います。さて、最後になりましたが、今の若手研究者、学生や大学院生など、今後この分野で活躍したいと思っている人たちに、先生から何かアドバイスをいただけますでしょうか。


浜田 私は、けっこう裁判の現実に付き合ってきたというのが、自分にとって大きかったと思うんですね。研究の領域の中から触発される問題意識だけでなく、現実世界の問題で、それこそ真偽が問われている裁判があるわけで、そこで心理的な問題があるわけですから、そこに入り込んで考える作業を、是非やってほしいと思っています。事件はたくさんあります。やる人がいないですし、実際の事件に関わってやっている人は、50代以降くらいの人じゃないかと思います。もっと若い人が、時間的な余裕がないかもしれませんが、やってもらっていいんじゃないでしょうか。

 また真偽のあるナラティブ論を学会としても広げてほしい。実際の事件に関与してものを言ってほしい。生身の人間の人生を左右することに自分が関与していくわけで、面白いというか、大変ですけど、是非やってほしいなと、私は思っています。私はたったいまも袴田事件について、裁判所の判断に対する反論めいた本を出すことを予定しています(『袴田事件の謎――取調べ録音テープが語る事実』(岩波書店))。当たり前の話を書いているつもりだけど、これが裁判ではなかなか通用しない。真偽のあるナラティブ論の一例として読んでいただいたら嬉しいなと思っています。


―― 本日はどうもありがとうございました。




インタビュー後記:

  • 浜田先生が法と心理学に関わる領域で研究されるようになった経緯や今後の研究など、貴重なお話を伺う機会をいただき、大変勉強になりました。今後の研究する上でも興味深いお話も多くありました。本当に、ありがとうございました。(佐藤)

  • インタビューでは研究の内容だけでなく、浜田先生の学生時代や研究のスタイルについてなど、貴重なお話しを聞かせていただきました。「私たちの心理学」もとても興味深かったです。私も先生のように情熱をもって研究に励みたいと思います。ありがとうございました。(相澤)

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