インタビュー
【第3回】村井 敏邦 氏(一橋大学名誉教授・龍谷大学名誉教授・法学館法律事務所客員弁護士)
村井 敏邦(一橋大学名誉教授・龍谷大学名誉教授・法学館法律事務所客員弁護士) |
専門は刑事法。裁判員制度、付審判請求制度、民衆と刑法など。 1964年一橋大学商学部卒業(商学士)・一橋大学法学部に学士編入学。同年10月に旧司法試験合格。1966年法学部法律学科卒業(法学士)。 一橋大学法学部助手、一橋大学法学部専任講師・助教授・教授、龍谷大学法学部・法科大学院教授、大阪学院大学法務研究科教授を経て現在に至る。法と心理学会設立の中心メンバー。 |
入山 茂(東洋大学大学院社会学研究科社会心理学専攻博士後期課程3年) |
専門は犯罪心理学、社会心理学。主に犯罪捜査の端緒における死因の推定手続き、心理学的検死、航空機ハイジャックや不正な保険金請求事案ついて研究を行っている。 |
向井 智哉(東京大学法学政治学研究科法曹養成専攻) |
2019年早稲田大学大学院文学研究科心理学コース博士後期課程単位取得満期退学。現在は東京大学法学政治学研究科法曹養成課程所属。博士後期課程では、犯罪者に対する一般市民の態度(特に厳罰傾向)を研究。 |
―― 改めまして、本日はインタビューをお引き受けくださりありがとうございます。はじめに、村井先生が刑事法の分野をご専門とされるようになった経緯を教えていただけますでしょうか。
村井 私は、学部のころは経営学を専攻していました。高校の頃は理系で、特に医者になりたかったのですが、物理の点数が上がらず、生物は好きになれず、浪人する余裕もないため、高校3年生のころに文系に変えました。もともと商売人の家だったので、一橋大学に入ると言うと父親はとても喜んでいました。商売人にとって、一橋大学は憧れの大学でした。
商売の家だったことから、英語も好きだし貿易でもやるかということで商学部に入り、経営学を選びました。高校の時も第二外国語としてドイツ語を選択していて、ドイツ語が好きだったので、ドイツ語を勉強するためにドイツ経営学を学ぼうと思いました。ドイツ経営学の泰斗であり、アメリカ経営学にも通じた藻利重隆 (もうり・しげたか) 先生の授業はとても面白く、非常に役に立ちました。たとえば、授業の中で「Betriebs Wissenschaft (経営学)」という言葉をどのように日本語に訳すかということがありました。例えば「Berieb」という単語1つを取っても、「営む」、「使う」などの意味があります。しかし、ここで「営む」という日本語訳を採用しても意味が通らないわけです。1つの言葉でもどのように日本語に訳すかによって意味が変わってくることを知り、言葉を大事にしなければならないということを学びました。ますます、ドイツ語が好きになったのです。
藻利先生によれば、なぜドイツ語で読むかというと、日本語を読むと分かった気になる。ドイツ語など外国語を読むと、一つ一つの言葉にひっかかる。辞書を調べるといくつかの意味があり、どの意味を選択するかは、全体が分からなければならない。ドイツ語を読むのに一日一行でも良いからきちんと理解することが重要ということを徹底的に教えられました。
藻利先生は「Betriebs Wissenschaftの『Wissenschaft』は『科学』という意味なんだ」ということを言っていました。「経営を科学の立場から見る。だから経営は科学なんだ」ということを言っていました。当時の1960年代は価値不信の時代であったため、私も同じように、「規範 (Sollen) と「事実 (Sein)」の区別などといった問題については1年生のころから考えていました。
このように学部では経営学を勉強してきましたが、卒業を前にして進路に悩むことになりました。当時は「神武景気」と呼ばれる好景気で、一般企業からは引く手あまたでしたが、自分の性格は企業向きではないと思っていました。
その時テレビで、弁護士のドラマがいくつかやっていました。それまでは商売人の父親の影響があり、弁護士なんて「三百代言」、つまり口先だけの仕事だと思っていましたが、そういう地道に弱者の味方をしつづける弁護士の姿を見て、弁護士っていうのは医者と一緒だと感じました。つまり、医者が体の病を治すように、弁護士も社会の病を治し、弱い人々の味方をする、そのような弁護士をイメージするようになりました。学部のころから身近な人々の相談を受けていたので、そのようなことも背景にあったかもしれません。
また別の背景としては、商学部4年生の時に植松正先生の刑法の授業を受けたこともあったかもしれません。植松先生の授業はとても面白い授業でした。ただ、当時は一応、商学部で経営学を専攻していて、卒業論文で企業合併の問題などを扱ったので、その問題を統制する経済法をやりたいなと思っていました。卒業間際に司法試験というものを初めて知り、刑法を学ぶか経済法を学ぶか迷っていました。
学士編入学の面接を受けた時、その委員が植松先生でした。どういうわけか植松先生が私の顔を覚えていて、植松先生から「来たまえ」と言われ、もうそこで刑法を学ぶことが決まってしまったのです (笑)。私は植松先生の授業が大好きでした。
2年間だけ法学部で勉強させてくれ、だめならジャーナリストになるからということで父親を説得し、下宿代は今まで貯金したアルバイト代から払いましたが、父親から学費の支援を受けて勉強させてもらうことにしました。ということで刑法を学ぶことになったのです。
―― お話を伺っていると、周りの方との関わりがあってはじめて自身の専門分野は固まっていくものだということがよく分かりますね。
村井 そうですね。上で言ったことにくわえて、刑事法に進んだのは、学部1年生の時にとった「法学通論」という授業の影響もあったかもしれません。もともと、法は支配の道具でしかなく弱者の味方にはなりえないのではないかと思っていましたが、いや今でも多少はそう思っていますが、この授業で「弱者の保護」という理念を聞きました。そして「刑罰のない社会が理想」という理念も知り、これに共鳴しました。つまり、法のマグナカルタ性と言われるものですが、法は人々が「こういうことをするとこの程度の罰をあたえるよ」ということをあらかじめ予告しておくことによって、予告された以上の苦痛を与えることを禁止し、結果として逆説的に人々の自由を守る。そのような側面があることを知りました。
―― ここまで研究のお話を伺ってきましたが、アルバイトや遊びはされてこなかったのでしょうか。
村井 もちろんしてきました。学部の時は弓道部だったので、試験勉強も弓道場でやっていました。中学・高校のころは柔道をやっていたのですが、体が大きくないと勝てないというのと、義姉が弓道をやっていたので弓道をやりました。遊びは麻雀をよくやっていました。弓を引くか、麻雀をするかでしたね。立場上学生に勉強しないといけないと言うこともあるけれど、実際にはそんなことを言える立場じゃない (笑)。
ただ、さすがに司法試験の時には真面目に勉強しました。朝6時に起きて2時間勉強して授業。15時に授業から帰ってきた後も18時まで勉強し、2時間食事を挟んで12時に寝るという生活をしていました。あんなに規則正しい生活をしたのはこの時だけですね。
あとは推理小説を読んだりしていました。先輩に勧められたフリーマン・ウィルス・クロフツ (英国の推理作家) の『樽』をよく覚えています。この小説は手がかりを全部提示して、読者になぞ解きをさせるタイプの推理小説なのですが、この本を読んでいて自分は法律家に向いているのかもと思いました。
学生にはよく言っていましたが、漫画や推理小説、テレビ、映画といったものに触れることも勉強なのではないかと思いますね。
―― 一橋大学や龍谷大学などで教鞭をとられる中でも、そのようなことを伝えられてきたのでしょうか。
村井 そうですね。勉強というのは座学だけではない、見聞を広めるのも勉強だということを伝えてきたつもりです。
こういう人がいました。アメリカ・サンフランシスコに留学していた人なのですが、研究室と自宅だけを往復していて、実際には市内などをあまり見て回っていない人です。もったいないですよね。そういう生活は、研究の成果はあがるでしょうが、何にもならないような気がします。
日本ではあまりそうはいきませんが、海外だと前もって連絡しないで飛び込みで行っても、普通では見られないようなものも意外と見せてくれたりします。英語も大変かもしれませんが、そうこうしているうちに慣れていきます。図書館で本を読んでいるだけよりも、特に海外に行った場合にはいろいろと見て回るのが大切です。
私はもともと本から入るのではなく、ぶつかっていくタイプなんですよね。学生などからはよく「先生は本当に考えていないですね」などと言われますが、「考えてどうするの」と言いたい。考えたってしょうがないことはあるし、あたってくだけることも必要。自分で壁をつくっているように見受けられる人が多い。そういう人に対しては、「他の路は何度もやってみてダメだったときに探せばいい。ぶつかりもしないで「越えられない壁」をつくってしまう。可能性を自分で縮めている」とアドバイスしますね。特に後輩には、「まずはやってみる」ようにとアドバイスしてきました。
―― たしかに、私たちも含めて若い世代は自分の中で完結してしまうことがあるように思います。もしそのような若い人たちに対して言葉があればお聞かせいただけませんでしょうか。
村井 好奇心ですかね。私は一時期、精神病院で研究員をやっていたことがあります。その経験が研究に直接活きているわけではないですが、少なくとも物の見方には役に立ちました。その病院では統合失調症の人がほとんどで、中には「頭の中に電波が送られている」と言ったりする人もいるわけですが、その人たちは自分ではなく医者の方が間違っていると言うわけです。考えてみれば、何が正常で異常かなんていうことは、脳の仕組みが完全に解明されない限りわからないですよね。正常と異常は結局のところ多数決です。だから戦争の時には異常が正常になったりするわけです。世の中そういうもので、僕らの世界の正常と異常の基準はあやふやで一種の「まやかし」なんだということを診療会議で知らされました。
とにかく若い人たちも、専門にこだわらずにともかく行ってみて聞いてくるというのが必要なんじゃないでしょうか。ただちにそれが自分の専門になっていくわけではなくても、それはそれでいい。あんまり短期的に考えない。面白いと思ったら持続すればいい。持続が難しいと思えば、いったん他のことをやって、いずれかえってくれば。研究の時にもいくつかのテーマを同時並行的にやったりすることがあるが、それがいいんじゃないか。
私は必要性に応じてテーマを選んできました。持続しようと思って持続してきたわけではありません。私はもともと研究者というわけではなく、弁護士に失望して大学に戻ったので、当初は研究のテーマ探しにあっちにいったりこっちいったりと苦労しました。何とかテーマを探したけども、ずっとそのテーマをやってきたわけじゃない。それでいいんじゃないか。
一個のテーマをずっとやるのが研究者の王道かもしれないが、私はそういうタイプじゃない。研究テーマに、「社会的関心からのテーマ」、「自分の関心からのテーマ」、「先生から与えられたテーマ」という3つがあるとすれば、私は渡り歩く方ですね。
―― いまの若手の置かれている状況には厳しいものがあるように思いますが、それについてはどうお考えでしょうか
村井 たしかに今の状況は特に厳しいですね。ただ私は定年より早めに一橋大学を出ましたが、それはこの大学が嫌になったからではありません。大学では好き勝手やらせてもらっていましたし、むしろ大学がよく我慢したなという感じです (笑)。
一橋大学に就職する時にも、刑事事件の弁護士はお金が儲からないので、資金が必要なのでそのためのお金を貯めるために大学に戻ってきたようなものです。最初は、いつでも辞めるという気持ちで、辞表を胸に入れて働いていました。一度は大学に辞表を出しましたがつきかえされて、最終的に受理してもらえたのは三回目でした。32年間一橋大学にいましたが、本当に大学側がよく我慢してくれたなという感じです(笑)。私の方はあまり我慢していなかったので。
指導教員との関係にもいろいろあると思いますが、植松正先生と私の関係は良かった。考え方はことごとく対立しましたが、それ以外のところでは魅力があった。心理学の中でも、裁判官のための心理学について論じていた植松先生の影響です。植松先生が私のことを好いていたのかはわからないですが、私は幸せです。師弟関係というのは難しいですしね。
とにかく、若手もあまり周りのことを気にしないでやってみるってことも必要です。どうしても足が踏み出せないってこともあるかもしれませんが、やってみると意外と恐いものはないと思います。
―― たしかに法学と心理学の間でも、「こういうことを言ったら言い合いになるんじゃないか」という遠慮があったりするように思います。
村井 法学と心理学は相容れないところがありますからね。でも意見を戦わせてみないと分からないこともある。お互いの分野でおかしいじゃないかというところがあれば率直に言い合う。相手の言い分を議論していく中でお互いが理解し合える。100%理解できることはないが、議論していかなければわからない。遠慮する必要はないと思います。
―― お互いに遠慮しないで表明するべき意見は表明していくのがいいのでしょうね。
村井 あんまり法学だから心理学だからという区別をしない方がいいと思いますね。心理学の中でも分野によってはお互いに理解できないことは多々あるでしょうし。
―― 貴重なアドバイスですね。アドバイスをいただいた流れで、もう一つ伺いたいと思います。村井先生はこれまでDNA鑑定などいくつかの研究を継続していらっしゃいます。研究を継続していくコツなどあるのでしょうか。
村井 DNA鑑定については、先ほど申し上げたようにもともと理系だったので、そこからの関心ですね。ただDNA鑑定との出会いは偶然で、新聞か何かでその記事を見たんです。DNAで個人が特定できるという話だったのですが、その時は「そう上手くいくんだろうか?」と疑いました。
あとは足利事件の前に話題になった事件があったのですが、その事件についても記者からコメントを求められていました。
DNA鑑定に関心を持ってからは論文を読んだりして情報を仕入れましたが、なるほど面白いけれどもこれで犯人がそう簡単にわかるものではないだろうと感じました。むしろ疑問から入ったんです。
周りの法律家の中でも「そういうことはDNAの専門家に任せておけばいい」という意見がありました。でも弁護士としてまったく知識がないのではすまされないし、DNAに対して批判意識もありました。基本的には、疑問点を一つずつ解明していき、解明できない疑問が多いほど疑わしいという考え方ですね。
その中で「DNA多型研究会」ができ、第1回の研究会が東京大学で開かれました。DNA多型学会になる3年ほど前ですね。このDNA多型学会について言うと、生物学関連のことはあまりよくわからないのですが、専門でないからこその面白さはありますね。法医学関係の発表の内容はわかるのですが、面白いのは生物学関連のことですね。
この学会のシンポジウムで言ったのですが、「科学者の危険性」というものがあるように思います。つまりこういうことです。自然科学者がDNAの研究をすることには大きな意義がある。しかしその結果を法律家に示した場合には、法律家は自然科学者とは違う捉え方をする。たとえば危険率5%という表現がよく使われますが、「間違える可能性が5%しかないのだから正しい」か「間違える可能性が5%もあるのだから正しくない」のどちらかになるかは、弁護側が証拠として出すか、検察側が出すかなどによっても変わってくる。日本の裁判所は都合の良いようにしか証拠を採用しないですから。科学者の良心がかならずしも法律家の良心とはならず。科学者にはそのことを踏まえた上で鑑定書などを書いてもらいたい。
―― いまのお話は、法律学と自然科学の共存の難しさにもつながるような気がします
村井 DNAを専門とする英国の遺伝学者アレック・ジェフリーズの著書の中に「科学者の前にすべてがひれ伏す」という表現がありました。専門家の言ったことが全部受け入れられるようになるならそれは危険です。科学というのは決して万能ではないし、それを受け取る側もそれを認識しないといけない。法律家は科学、とくに自然科学にコンプレックスがあるように思います。ただ供述分析は別です。供述分析は自分たちの領分だと思っているので、そこに心理学が入って行こうとすると抵抗する。ですが、数値で表したり実験をしたりすると、ころっと意見が変わる。供述分析だけではあまり説得力がないので、脳科学などの知見も活かしつつ、味付けにでも自然科学を入れた方がいいように思いますね。
―― 本学会の今後の活動についてはどのようにお考えでしょうか。
村井 法学の領域をもう少し広げることでしょうか。もともと私の近くにいた刑事法の領域の人が法と心理学会にどっと入ってきたので刑事法を専門とする会員が多くなっています。しかし、それ以外の領域にもすそ野を広げていく必要があると思います。
例えば、近年ではAI (artificial intelligence:人工知能) が注目されています。AIが人間社会にどのような影響を与えるのかなどの研究をやっている人もいます。このような人たちも誘って、すそ野を広げて行くのがいいでしょうね。
―― 最後になりますが、若手への要望やエールなどあればお聞かせ願えますでしょうか。
村井 とにかくチャンレンジです。あと、「これは話したらまずいんじゃないか」と思わないで、率直に自分の話を相手に伝えた方がいい。侃々諤々 (かんかんがくがく) の議論をすればあとは和解するだけですから。相手と言い合いになることを恐れずにやるのが必要で、それができるのは若い時だけです。50歳、60歳になると立場もあるので、強いことを言うと相手を落ち込ませてしまう。私も学生から後になって「あの一言で落ち込みました」と言われたことがある。もちろん、ある程度言葉は控えた方がいいが、若い時なら、言い合うのもいい。
ただ、インターネットはよくないね。メールだと相手の顔がわからないからどんどんヒートアップしてしまう。言い合うのはいいが、メールではやめた方がいい。
―― 本日は貴重なお話しありがとうございました。
インタビュー後記:
- 村井先生から、研究をすることの本当の意義を教えていただいた気がします。もっと同世代の仲間と議論し、世の中の様々な問題にチャレンジし、自分自身の見識を広げたいと思います。(入山)
- 先生がどのような理由で研究を始められたのか、どのような熱意を持って研究を行ってこられたのかといったことの一端を知ることができ、大変貴重な経験をさせていただきました。伺ったお話を自分の研究生活に活かせるよう精進していきたいと思います。(向井)